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南無阿弥陀仏
一遍上人は延応元年(1239年) 愛媛県の豪族、河野通広(法名は如仏)の第二子として愛媛県道後にある宝厳寺で生まれました。
10歳のときに母が亡くなると、天台宗継教寺で出家して法名は随縁と名のります。
13歳になると九州大宰府に移り、法然​上人の孫弟子に当たる聖達上人の下で10年以上にわたり浄土宗西山義を学びました。
聖達上人は、浄土教の基礎的学問を学ばせるため、肥前国清水寺(佐賀県小城町)にいた華台上人のもとへ最初の1年間おくり、仏教の基礎を学ばせ、法名を智真と改めさせます。
1263年25歳のとき、父の死により還俗し故郷伊予にて半僧半俗の生活を送る事になりますが、一族の所領争いや男女の愛欲など人間が持つ欲望に悩み32歳で再び出家して、信濃の善光寺へ参籠し、伊予の窪寺、岩屋寺に籠もり修行をしました。
この修行により一切を捨て去るという境地に達したのです。
1274年2月36歳のとき、故郷伊予を後にして、妻である超一、娘の超二、下男の念仏坊と共に遊行の旅に出たました。
一遍上人は大阪四天王寺本尊釈迦如来の前で十戒を受け高野山へ登り、南無阿弥陀仏と書かれたお札を配り始めました。この事を賦算(ふさん)といいます。
高野山から熊野に向かっているとき、旅の老僧に念仏札を渡そうとしますが、不信心を理由に拒否されて無理矢理お札を渡してしまいます。
この老僧との問答により自分が行ってきた賦算に疑問を抱き悩みます。
その答えを参籠した熊野本宮で解決しようとしました。
ある日、阿弥陀如来の化身である、熊野権現より衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受けました。
つまり信じる気持ちがあろうがなかろうが、また浄も不浄も差別なく、お札を配りなさいとのお告げでした。
このときから一遍と名のり、念仏札に決定往生六十万人と加えました。
その後、妻子をを捨て鹿児島神宮など九州地方を遊行し後に二祖となる真教上人と出会いました。
再び長野に向かい伯父の通末が配流された信濃国伴野荘を訪れた時に初めて踊り念仏を始めました。
下人、非人から貴族にいたるまで踊り念仏は広がり、乱世に苦しむ人々の間で大流行しました。
東北地方から武蔵国、鎌倉を周り九州地方まで遊行し、お札を配り、踊り念仏をして人々を極楽浄土へ導きました。
一遍上人は亡くなる直前に、書籍や自分の持ち物を阿弥陀経を唱えながら全て燃やしてしまいました。
1289年8月23日、兵庫県にある教信寺に向かう途中、摂津兵庫津の観音堂(現 真光寺)で15年の過酷な遊行の末、51歳で亡くなりました。
余計なものは一切捨て去り、捨て聖と呼ばれた一遍上人の生き方から、物に囲まれて生きている私たち現代人は学ぶ事がたくさんあるのではないでしょうか。

 
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